2018.3 またまた埼玉の神社を訪れました。出雲乃伊波比神社を訪れた後、道路一本で結ばれている「延喜式内社・
小被神社」へ詣でました。延喜式内社がこんなに近くに二社もあるという事は、昔はずいぶんと繁栄していたのでしょうか。
境内入り口
小被神社 略誌
鎮座地 埼玉県大里郡6寄居町大字富田字宮田1508番地
御祭神 主神 瓊瓊杵尊
相殿 木花咲耶姫命
相殿 彦火火出見尊
由 緒
・ 富田邑は、第27代安閑天皇の朝.1470年前郡家郷富田鹿、塚越に居住せしに始り、富川鹿が郡内鎮護のため創祀せり
と、伝承。
・ 延喜式内社 第60代醍醐天皇延長5年平安時代中期に編纂された有名な書物に登載されて居ると云事。本年より数えて
1081年前。
・ 男衾郡総鎮守
・ 旧村社
御神徳
・ 瓊瓊杵尊は皇祖天照大神の御孫にて豊葦原の瑞穂国を最初に治められた神、農耕殖産興業等日常生活を営む上に欠くことの
出来ぬ御神徳を有する神様。
・ 相殿 木花咲耶姫命、主祭神の奥方、燃ゆる火のなかでお産をなされた故事にあやかりてお産の神様。また美麗なる神様。
富士浅間神社の御祭神。
・ 相殿 彦火火出見尊、彦は男子の美称、火火は稲の穂の豊かな形容詞、主神瓊瓊杵尊の御子神様で御父神様の後を継ぎ、
国土経営をなされた神様。
祭 日
・ 1月1日 新年祭 年頭にあたり幸先を祈念し,氏子社に互礼を交す。
・ 4月第二日曜日 春祭 神社本庁より幣饌料供進、祈年祭を併せ行う。五穀豊穣諸産業隆盛氏子豊楽入学児童の安全を
祈願する。
・ 10月第二日曜日 秋祭 以前の新嘗祭を併せ行う。本年中の生業の安泰を感謝する祭典。
・ 12月31日 大祓 年間思はずも積ったてあらふつみ汚を祓い消め清潔な心身にて新年を迎える神事。
平成18年10月吉日 小被神社社務所 案内板より引用
拝殿
社号額には何もなく・・・老朽化して無くなったのでしょうか?・・・・・この答えは最後に分かります。
富士浅間大社の陽
境内 手水舎と左側にずらりと境内社
http://www.buccyake-kojiki.com/archives/1062132614.html 様によると、
・『延喜式』巻9・10神名帳 東海道神 武蔵国 男衾郡「小被神社」に比定される式内社(小社)。近代社格では村社。
・社伝によると、第27代安閑天皇の時代、当地の豪族であった富田鹿が郡の地主神である小被神を祀り、一社を建立したのが
当社の始まり。
・現在までに、主神は瓊々杵尊。その妻である木花開耶姫命と、子である彦火火出見尊を相殿に祀る。
・富田鹿については不詳だが、当社祭祀に関与した氏族として、男衾郡に置かれた壬生部の管掌者として入植した渡来系氏族で
ある壬生吉志氏がいる。
・『類聚三代格』『続日本後紀』などによれば、男衾郡大領(郡の長官)の壬生吉志福正は、承和8年(841年)、自らの子供の
生涯の調庸を全納。 承和12年(845年)には焼失した武蔵国分寺七層塔を独力で再建した。男衾郡総鎮守である当社に対しても、
壬生吉志氏が関与していた可能性があるという。壬生吉志氏に関しては、稲乃比売神社や、滑川町伊古の伊古乃速御玉比売神社
との関連も指摘される。
・鎌倉時代になると、当社は武蔵七党の猪俣党に属する男衾氏の崇敬を受けた。 『武蔵七党系図』によると、猪俣時範の子、
重任が当郡富田に移任し、男衾五郎と称した。また、その子の太郎もやはり富田に居住して无動寺氏と名乗った。
・両氏の館跡については、男衾氏が字堀の内、无動寺氏が字前塚越の現在の不動寺境内であると伝える。 この不動寺境内の
「大明神御下屋敷」と呼ばれる地が、当社の旧鎮座地だったという。 移転については、天正年間(1573年-1592年)の荒川の
洪水により右岸にあった赤浜村が対岸に移住したことにより、富田村との境界争いになった。 この赤浜村の洪水については、
町内赤浜の出雲乃伊波比神社に関連伝承が残る。富田村民は江戸時代初期、当社を村境に移転し、境界争いを解決した。
・『新編武蔵風土記稿』によれば、当社の別当は京都智積院の末寺である大聖山真言院不動寺。
・明治になると、神仏分離により不動寺は当社から分離、明治2年(1869年)、不動寺住僧弟子恵隆が還俗し、大富主殿と改名して
当社の神職となった。 明治40年(1907年)、堂ノ入と叺ヶ谷戸の山神社二社、大久保の愛宕社・原の内宮社・塚越の稲荷社・
鳥羽の白山社・鷲丸の浅間社を合祀。 境内には今も、中郷愛宕神社、谷津白山神社、塚越稲荷神社、下郷内の宮社、牛頭天王宮など
の社や、石祠、富士浅間大神などがある。
・現在、当社内陣には狼の頭骨が納められているが、これは合祀した山神社の信仰にかかわった奉納品であろうとされる。
・当地の文化財として、明治維新に活躍した山岡鉄舟揮毫の社号額と軸が社務所にある。いずれも肉太で豪胆な筆勢をもって書かれた
もの。 このうち、社号額は、当時、鉄舟に誤って「男衾」と依頼してしまったとの逸話を持つもので、このためにいまだに拝殿に
掛けられず、社務所内に掛けてあるという。
なんと社号額が無かったのは、このような理由だったとは・・・・それにしてもずいぶんと月日が流れているのですから、
何とかならないんですかねえ。
男衾(おぶすま)郡は、現在の熊谷市・深谷市・寄居町・小川町辺りのようですが、古墳群が多い北武蔵でも特に多く、延喜式
神名帳に3社(小被、出雲乃伊波比、稲乃賣神社)記されているなど、人口も多かったようですよ。