階段上部の駐車場に入れて、いったん境内外に出てお参りしました。神社は多摩川沿いにあって近くには沢山の古墳が
あります。この神社も古墳の上に建っているそうです。
参道の階段の下には、大祓詞の書かれた黒い車輪がありました。大祓詞とは、穢れを祓うために唱えられた祝詞。
車輪を一周回すことで唱えた事とするのでしょうね。
参道階段を登るにつれ沢山の鳥居が見えてきます。
二つ目の鳥居から奥は、溶岩も施され富士塚のようなイメージですね。
振り返るとこんな感じ。登ると・・・
おお!と思わず声をあげてしまう、立派な拝殿。
拝殿
1973年に建てられた本殿は、東京都内では唯一本殿の建築様式が浅間造。富士山本宮浅間大社に代表される浅間造は、
社殿の上にさらに別の社殿が載った二階建ての建築様式。1300社以上ある浅間神社の中で、4社にのみみられる貴重な建築の
一つがこの多摩川浅間神社。
二階建ての建築様式ですね。
こちらは2016.8に参った富士山本宮浅間大社の拝殿と2階建ての本殿
拝殿脇より。
子産石
夫婦イチョウ
末社 とても綺麗にされていますね。
食行 身禄(じきぎょう みろく)
寛文11年1月17日(1671年2月26日) - 享保18年7月13日(1733年8月22日))は、日本の宗教家。富士講の指導者。
富士講碑
多摩川方向
手水舎
いや~良い眺めです。東急東横線が走っています。天気が良ければ富士山もバッチリ見えそうですね。残念。。。
丸子橋方面
多摩川浅間神社:東京都大田区田園調布にある神社。
・全国にある浅間神社の一社。本殿の建築様式は浅間造であり、これは東京都内では唯一。
・社殿は浅間神社古墳の上に建てられており、間に東急東横線を挟んで多摩川台公園の舌状台地に連なる。
・社殿までの参道は多数の溶岩が置かれ、富士塚のように富士登山を模している。
・富士山本宮浅間大社同様に、木花咲耶姫命を主祭神とし、熊野神社と赤城神社を合祀している。
・創建は鎌倉時代の文治年間(1185年~1190年)と伝えられる。 源頼朝が豊島郡滝野川松崎に出陣した時、夫の身を案じた
北条政子が後を追って多摩川まで来た。その時わらじの傷が痛んだため、この地で傷の治療をすることにして逗留した際に
亀甲山へ登ってみると富士山が鮮やかに見えた。富士吉田には、自分の守り本尊である浅間神社があるので、政子はその
浅間神社に手を合わせ、夫の武運長久を祈り、身につけていた正観世音像をこの丘に建てたという。それ以来、村人たちは
この像を「富士浅間大菩薩」と呼び祀ったのが、この神社の起こりとされている。
・その後、1652年(承応元年)5月に浅間神社表坂の土止め工事をしていた時に、九合目辺りから正観世音の立像が発掘された。
多摩川で泥を洗い流すと片足が欠けていたため、新たに足を鋳造して祀り、6月1日に神事を行ったという。これにならい、
現在も6月に例祭を行っている。
・1907年(明治40年)に『一村に一神社』という合祀のための政令が出されたため、当時の東京府荏原郡調布村大字下沼部に
あった赤城神社、熊野神社、浅間神社の三社のうち前二社を当社に合祀する。
・境内には、富士講中興の祖である食行身禄の石碑がある。明治15年に地元の講社が33回目の登山を記念して建てたものである。
この石碑の字を書いたのは勝海舟である。by wikipedia
多摩川台古墳
多摩川台古墳は、八基からなる古墳時代後期の古墳群である。古墳群の南側には国指定史跡亀甲山古墳、北側には東京都都指定史跡
宝莱山古墳の二基の大型前方後円墳が古墳時代前期(四世紀)に築造されている。
古墳群は、最初に二号墳が六世紀前半に築造され、二号墳を前方部として利用し、一号墳を後円部とする一基の前方後円墳(全長三
十九メートル)が六世紀後半に築造された。その後、三号墳から八号墳までの円墳(直径十三~十九メートル)が七世紀中頃まで継続
して築造された。
発掘調査された古墳の横穴式石室内からは、副葬された直刀や鉄鏃等の武具類、耳飾りや管玉等の装身具類、馬具の轡、須恵器や土
師器が出土し、墳丘部からは円筒埴輪が発見された。
本古墳群は、大田区田園調布付近から世田谷区野毛付近に所在し、昭和初期に五十四基の古墳が確認されていた荏原台古墳群の一支群
にあたる。今日、荏原台古墳群の多くの古墳が都市化の波に埋もれてしまっている中で、本古墳群は往時の姿をとどめているだけでな
く、当時の多摩川下流左岸地域の首長墓群の変遷をたどることができる貴重な古墳群である。