Quantcast
Channel: ~風に吹かれて~ by ポー(paw)
Viewing all articles
Browse latest Browse all 1474

四国旅行4 高知県(土佐神社)

$
0
0

沈下橋を見学後、高知市内へ戻る途中に土佐二宮の神社、小村神社があったので参拝しました。

Content image Content image

拝殿

Content image

本殿

Content image Content image

本殿裏のご神木 樹齢千年。

小村神社(おむらじんじゃ)は、高知県高岡郡日高村下分にある神社国史見在社土佐国二宮で、旧社格県社

祭神は次の1柱[1]

国常立命(くにとこたちのみこと)

国宝金銅荘環頭大刀神体とし、『南路志』にも「神体剣」と見える[2]中世における本地仏大日如来であった[3]。社伝では用明天皇2年(587年)の創建とするが、詳細は不明[3]。祭神の設定は後世のものとして、神体の金銅荘環頭大刀が原始の信仰対象であったとする説もある[6]。以上のように諸説があり創建は不詳であるが、立地的には仁淀川水系を押さえた古代の有力豪族が祭祀した神社になる[7]

小村神社 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』最終更新 2022年9月15日 (木) 06:30

 

その後、高知市内へ戻り、9時半ごろ、土佐神社を参拝。

Content image

 

Content image

土佐神社 楼門(神光門) 1631年建立(国重文)かつての善楽寺の仁王門。門の奥には300m続く参道。

Content image Content image Content image

拝殿 1570年再建(国重文)

Content image

拝殿の前方の拝の出。すごい空間です。

Content image Content image Content image

 

 

Content image

奥は幣殿 その奥に本殿

Content image

 

Content image

 

Content image

 

Content image

 

Content image

摂社の3社の鳥居

Content image

右側・・・本殿 1570年(国重文)

左側・・・摂社の3社 (左から)事代主神社・西御前社・大国主神社。

Content image

大杉

Content image

 

Content image

礫石(つぶていし) - 境内東北方にある畳2畳程の自然石。土左大神が鎮座地を定めるにあたり投げた石と伝える[3]。古くはこの礫石を磐座として祭祀が行われたとする説がある[10]土佐神社 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』最終更新 2022年9月15日 (木) 06:23 

Content image Content image

境内社・厳島神社

Content image

鼓楼 

1649年建立 (国重文) 神仏習合時代、 土佐神社は、四国八十八ヶ所・第30番札所の善楽寺と神仏習合の形態をとっていました。

Content image

境内風景

Content image

境内風景

Content image

脇の駐車場から入ってしまったのですが、楼門(神光門)の前には300m続く参道がありました。

土佐神社(とさじんじゃ)は、高知県高知市一宮(いっく)しなねにある神社式内社(大社)、土佐国一宮旧社格国幣中社で、現在は神社本庁別表神社

高知市北東部、南国市へと通じる逢坂越えの西麓に鎮座する[1]。『日本書紀』や『土佐国風土記』(逸文)の記述で知られるように古代から祀られた古社で、中世・近世には土佐国の総鎮守として崇敬された高知県を代表する神社である。

代々の領主は土佐神社に対して崇敬が篤く、現在の主要社殿は戦国大名長宗我部元親による造営、楼門(神光門)・鼓楼は土佐藩第2代藩主の山内忠義による造営で、いずれも国の重要文化財に指定されている。また祭事としては土佐三大祭[注 1]の1つとして知られる例祭志那禰祭(しなねまつり)」が古代から続き、神宝としては鰐口能面銅鏡等を伝世している。

現在の社名「土佐神社」は明治の改称によるもので、それ以前の史料では次のように表記される[2]

土左大神 - 『日本書紀[原 1][原 2]、『土佐国風土記』逸文[原 3]

土左高賀茂大社 - 『土佐国風土記』逸文[原 4]

都佐坐神社 - 『延喜式神名帳[原 5]

都佐坐神 - 『日本三代実録[原 6]

高賀茂神 - 『長寛勘文

中世近世には一般に「高賀茂大明神」と称されており、一部には「一宮大明神」とする史料も見られる[2]。この「一宮」は土佐神社が土佐国の一宮であったことに由来するもので、土佐神社周辺の地名に現在も使用されるが、土佐では「いっく」と読まれる。

明治4年(1871年)、国幣中社に列するに際し社名を「土佐神社」と改称した[2]。地元では「しなねさま(志那禰様)」とも称されている。

祭神は次の2柱[3]

味鋤高彦根神(あじすきたかひこねのかみ)

神名を『古事記』では「阿遅鉏高日子根神」、『日本書紀』では「味耜高彦根神」とする。特に『古事記』では大国主命多紀理毘賣命の間の子とし、別称を「迦毛大御神(かものおおみかみ)」とする[2]都佐国造の祖神とされる[4]

一言主神(ひとことぬしのかみ)

神名を『古事記』では「葛城之一言主大神」、『日本書紀』では「一事主神」とする。両書でいずれも雄略天皇段に登場する神で、特に『古事記』では悪事・善事も一言で言い放つ託宣の神とするが、系譜は不詳。

この一言主神は大和葛城地方(現・奈良県御所市周辺)において巫覡を事とした集団に関わる神といわれ、事代主命と同神とする説もある[1]。なお『先代旧事本紀』では、素戔烏尊の子とする[2]

中世における祭神の本地仏阿弥陀如来[5]。後述のように、古くから祭神として味鋤高彦根説・一言主説が存在するが、現在は上記のように両説を採り祭神2柱としている。

土佐神社の祭神は、古くは『日本書紀天武天皇4年(675年)条[原 1]朱鳥元年(686年)条[原 2]で「土左大神」として、地方神としては珍しく「大神」の称号を付して記載された[1][6]

歴史的には在地豪族の都佐国造が土左大神の原始祭祀を行なったが、賀茂氏進出に伴いその祭祀権は賀茂氏に移ったとされる[1]

一宮周辺含め都佐国造の領域(高知県中部・東部)では、古墳時代後期(6世紀-7世紀代)の多くの古墳の分布が知られる。

なお、土佐神社境内の東北辺に祀られている「礫石(つぶていし)」に関して、古くはこれを磐座として祭祀が行われたとする説がある[10]。そのほか、土佐神社付近にも古墳2基(一宮古墳群)があったことが知られる[14]
 

土佐神社 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』最終更新 2022年9月15日 (木) 06:23 

う~む・・・かなり古い神社です。

ここの祭神の一柱の一言主神の茨城の神社、一言主神神社へはかつて参ったことがあります。

一言主神社(茨城県常総市)~たった一言の願いでも聞き入れてもらえる#234 | ALIS ALISは記事の作成やいいねで人気NFTやトークンがもらえるソーシャルメディアです。はじめてブロックチェーンを利用する方も無料で気軽に楽しめます。 embedded image alis.to

 


Viewing all articles
Browse latest Browse all 1474

Trending Articles