2018.6「山形旅行記」4(出羽三山神社1)
2018.6 山形方面へ参拝の旅に出かけました。鶴岡市内の本宮三宝荒神社参拝後、羽黒山の出羽三山神社へ。
県道47号線の出羽三山神社大鳥居
出羽三山神社の駐車場に着くと・・・何だか沢山の人が・・・
わ~、保育園の遠足でしたー(笑)
う~ん・・・修験道の神社には似つかわしくないけど、これもまたこれで何だか楽しい(笑
末社・羽黒山天地金神社
随神門の右手前にある朱塗りのお社で、応永4年学頭法性院尊量により創建されたが兵乱のため大破し、後に羽黒山
智憲院宥然により安永8年(1779)再興された。もと「元三大師像」を御本尊としてお祀りしたので大師堂と
称していたが、昭和39年、須佐之男命をお祀りし、天地金神社となり現在に至っている。出羽三山神社hpより。
装飾彫刻の獅子も龍もとても特徴的ですね。なんか可愛らしいです。
天地金神社脇の「豆腐地蔵尊」
この地蔵尊は、第50代別当である天宥別当が羽黒山の二の坂上の 御本坊平あった宝前院という大伽藍の側に安置されて
いたもので、 御山の繁昌と道中安全の守護仏としてお祀りされていたそうです。
廃仏毀釈が激しくなるにつれ、仏像や石像が 燃やされたり壊され、山々を取り囲む谷間に落とされるなどした。 明治6年
宝前院が取り壊しになると、道中を守護してきた この地蔵尊も藪の中に倒されてしまった。
ある時、石工(与蔵)が、地蔵尊を見つけ『お!ちょうど豆腐石にいい石じゃないか!!』と 地蔵尊の顔面を一撃したところ、
その場に卒倒して気を失った。 三日三晩意識が戻らないままだった。 そんな中、与造の夢枕に地蔵尊が立ち『悔い改めよ』
と告げた。 与三は夢の中で自分の行いを反省し、孫子三代にわたり、地蔵尊に 豆腐を捧げることを誓ったところ、四日目に
なって意識が戻った。
この不思議な話を聞いた手向地区の住人の碓氷甚内という者が 五十両の私財を投じ、現在地に地蔵尊を建立した。
それ以来、この地蔵尊は『豆腐地蔵尊』と呼ばれ、延命長寿や 安産子安・子育などの願いを必ず聞き届けてくださると信仰
されているそうです。https://ameblo.jp/blaue-wind/entry-12319056043.html様より。
随神門
羽黒山参詣道の入り口に建つ、赤い山門が随神門。
左右に悪霊の侵入を防ぐ門番の神々(随神)、豊石窓神(とよいわまどのかみ)と櫛石窓神(くしいわまどのかみ)が剣と
弓矢をもって鎮座しています。神仏習合時代は仁王門として仁王像が安置されていました。
随神門前にある「天拝石」。この不思議な石を通して天を祀ったとされ、修験者の行法を行った場所の石とされている。
さあ、いよいよ羽黒山へ。まずは下っていきます。
継子坂を下ると、参道横に境内社が鎮座する空間へ。
たくさんの末社。遠足なんで子どもたちが多かったですよ~(笑
禊川と禊川神橋(赤い橋)
祓川は月山を源流とする清流で、昔、出羽三山を参拝する人々はこの祓川で罪や穢れを祓い清めたのだと伝えられています。
また、この祓川神橋は、山上の清僧修験(肉食妻帯しない修験者)と山麓の妻帯修験者とを分ける境界となっていたそうです。
「須賀の滝」と拝所である「祓川神社」と「岩戸別神社」。
須賀の滝は、第50代別当であった天宥別当が8km放れた 月山山麓の水呑沢から水を引いて造った人工の滝だそうです。
神仏習合当時は『不動滝』や『祓川滝』と呼ばれていました。
立派な杉です!
「羽黒山の爺スギ」 樹齢1,000年、根周り10.5m、幹囲8.25m。羽黒山内で最大最古の杉の木であります。
近くに婆スギもあったそうですが、明治35年(1902年)の暴風により倒れてしまったのだそうです。
奥に五重塔が見えてきました。
子どもたちがたくさん(笑) 年少さん?はここで折り返すみたいでしたよ。
国宝の羽黒山五重塔
羽黒山五重塔は羽黒山にある室町時代建立の五重塔。
東北地方では最古の塔といわれ、平将門の創建と伝えられています。現在の塔は約600年前の長慶天皇代に、庄内の領主で
羽黒の別当であった武藤政氏によって再建されたものといわれています。
高さが29.0mの三間五層柿葺素木造で、昭和41年には国宝に指定。
明治時代の神仏分離により、神仏習合の形態だった羽黒山は出羽神社となり、山内の寺院や僧坊はほとんど廃され、取り
壊されたが、五重塔は取り壊されずに残された数少ない仏教式建築の1つである。
五重塔は、仏塔の形式の一つ。層塔と呼ばれる楼閣形式の仏塔のうち、五重の屋根を持つものを指す。下から地(基礎)、
水(塔身)、火(笠)、風(請花)、空(宝珠)からなるもので、それぞれが5つの世界(五大思想)を示し、仏教的な
宇宙観を表している。
仏塔は、古代インドにおいて仏舎利(釈迦の遺骨)を祀るために紀元前3世紀頃から造られ始めたストゥーパに起源をもつ。
古代インドのストゥーパは饅頭形(半球形)のものであったが、この形式が中国に伝えられると、楼閣建築の形式を取り入れ
て高層化するようになった。こうした楼閣形の層塔は朝鮮半島を経て日本へ伝えられた。木造の層塔は日本に多く残って
おり、中国、朝鮮半島における遺例はごく少ない。by wikipedia
つづく~