2018.2 東村山久米川の熊野神社へ詣でました。西武新宿線沿いの熊野公園の脇にあります。公園は地元の方々の
憩いの場所のようなとても良い公園でしたよ。
一の鳥居 境内入り口
熊野神社の創建年代は不詳ですが、元弘年間(1331~1334)久米川の合戦の時に新田義貞が後詰を置いた所といい、
久米川村の鎮守として崇敬を集めました。
拝殿 手前右は手水社。手水社の屋根が立派です。
本殿 立派な本殿です。
本殿正面
境内社には稲荷神社、伊勢神宮、御嶽社、神明宮がありました。更に小高い丘があったので調べると、
「久米川の富士塚」がありました。
霊峰富士は、山岳信仰の神体として昔からその信奉がはじまり、室町期に入り、行者、修験者を中心とした富士登山が多く、
江戸時代になり富士浅間信仰は町民農民の間に拡がり、富士講がつくられ、江戸府内八百八講と呼ばれるほどとなった。
江戸後期、行衣の富士登山は幕府によって慎まざるを得なくなったが、代わりとして御師や先達によって運ばれた富士溶岩を
据えた富士を模した塚が各地に築造され、そこを登拝し、信仰を守り続けた。
講はひと村だけではなく各村にまたがり盛行した。
久米川富士塚は、日立講中らにより明治21年(1888)築かれた。
塚の頂上には富士浅間社の石祠があり「日立講、明治21年4月、入間川先達富山常行」と銘があり、ほかに日立講の碑が
2基建立されている。
さらに、同年4月南秋津村、北秋津村講中官位講の石碑がある。
富士塚は、江戸後期から明治期に特に盛んになった富士浅間を信奉する富士講の偉大なる所産で、近世、近代の信仰を
物語るものである。
戦前は、講員が7月登山し、お山で請けた神札を講中に配るなどしたが、戦後は、市域には見られない。東村山市hpより
富士塚の上にはそびえたつような巨樹が鎮座していました。
富士塚山頂より 思いのほか眺めがよいです。
山頂の祠を探しましたが見つかりませんでした。