2018.2 大磯町方面へ神社参拝に行きました。春霞、暖かな一日でした。
高来神社参拝後、相模國総社 六所神社へ向かいました。
境内に隣接する駐車場へ向かう途中の大ケヤキ
こちらは国道一号線から続く参道沿いの大ケヤキ(樹齢600年)
こちらも大ケヤキ どの大ケヤキもコブコブで個性的です。
境内正面
何で鳥居がないの??神主さんへお聞きしたら、東海道本線で分断(実際はトンネルで繋がっている)された国道一号線
沿いにあるそうです。(参拝後に発見しました)でも、これだけの神社ならばこの境内正面に二の鳥居があっても良さそう
な気がするんですけど・・・。
拝殿
・第十代崇神天皇の頃、出雲地方よりこの地に氏族が移住せられ、この地を『柳田郷』と名付け、氏族の祖神たる
櫛稲田姫命を守護神とし『柳田大神』と称しました、御創建は崇神天皇甲申の歳と伝えられております。
・大化改新後、奉遷歴勅を以て相模国八郡神祇の中心たる、相模国の総社として現鎮座地に遷座いたしました。 その時より、
柳田大神に、一之宮寒川神社、二之宮川勾神社、三之宮比々多神社、四之宮前鳥神社、平塚八幡宮の分霊を合わせ祀り
相模国総社六所神社と称されるようになりました。
・鎌倉時代には、源頼朝公の崇敬誠に篤く、治承四年富士川の合戦の戦勝祈願を始め、奥方の北条政子の安産祈願等
たくさんの記録があります。
・戦国時代には、戦国大名の小田原北条家の崇敬も大変厚く、また、後に関東を支配した徳川家康も此に倣い、
六所領五十石(相模国では2番目の大きさ)寄進の御朱印状をよせ、以後歴代の徳川将軍も同様に五十石を寄進し
明治に至っております。 尚、現在の御本殿と社殿を支える石垣は、戦国大名北条家造営のものです。
(西暦1500年代前半)http://www.rokusho.jp/history/history.htmlより
扁額には「惣社六所大明神」 立派なしめ縄ですね。出雲で作られているそうです。
立派なお神輿です。
神輿は神社を模したものです。その証拠に必ず鳥居が付けられています。神輿の起源は、高貴な人が乗った輿(こし)と
言う乗り物にさかのぼります。奈良時代、格式ある神社から神様を分霊する際、輿を用いたことから、こうした輿を、神の輿、
「神輿」と呼ぶようにになったそうですよ。
本殿
境内の隅に置かれていたお狐さん。会話が聞こえそうでした。
境内社 稲荷神社
水神社 境内入り口付近には神池があります。
こちらは「龍神大神社」
二千年以上前、出雲の国より櫛稲田姫命様をこの地にお祀りした時、櫛稲田姫命がこの龍神様を連れてこられたそうです。
こちらは「弁天社」
境内より参道方向
手水舎
国道一号線沿いの大鳥居。参道側より。
国府(こくふ、こう)は、日本の奈良時代から平安時代に、令制国の国司が政務を執る施設(国庁)が置かれた都市。
国府付近には国庁のほかにも国分寺・国分尼寺、総社(惣社)が設置され、各国における政治的中心都市であるとともに
司法・軍事・宗教の中心部であった。by wikipedia
というわけで、とても古い歴史を携えた神社でした。
大磯は、高句麗(現在の中国東北部から朝鮮半島北部にわたる地域に存在した古代国家)からの渡来人が移り住んだという
歴史があり、中世には相模国の国府の一つが置かれていたようですし、江戸時代には東海道の宿場町として栄えたようです。
近代以降は、温暖な気候により保養地として注目され日本の海水浴の発祥とする説もあります。また大磯町は明治時代から
避暑地・避寒地として知られ、8人の首相が邸宅や別荘を構えました。いや~、古代から現代まで盛りだくさんの町でした。