2018.1 桶川の稲荷神社へ参拝に行きました。
桶川市
古くは江戸時代の五街道の一つ中山道の宿場町・桶川宿として発展し、江戸時代に周辺部で栽培されていた紅花は
「桶川臙脂」としてその名を知られ、最上地方に次いで2番目の収穫高を誇っていた。現在でも中山道には蔵作りの
建物など宿場町の面影を残している。農業用地を残す一方で、近年は住宅地化も進行している。by wikipedia
神社へ向かう途中、旧道17号の中山道を走りましたが、確かに古い建物があちこちに残っていました。桶川市観光協会
でも、「中山道宿場町ベニ花の郷・桶川」と頑張っているみたいですよ。歩き回るのも楽しそうです^^
境内入口 着物屋さんの前です。
鳥居 境内・正面
境内に入る前に境内に沿って左側へ。大きなケヤキの腹央に・・・・
神社がありました。
欅のつぶやき・・・
「腹央を裂かれ この地に幾星霜 自然の法に生かされており 人誰も己が腹底見せずとも 吾はかくさじかく開きおり」
名言ですなあ。。。
「欅稲荷神社」お参りさせて頂きました。
日本一小さな神社??をお参りして、境内へ。
由緒
中山道桶川宿の街道筋から、東側に少し入った閑静な住宅街の一角に当社は鎮座する。社伝によると、嘉禄年間(一二二五
-二七)の創建で、桶皮郷(現在の桶川市と上尾市にまたがる地域に比定される)の惣鎮守として奉斎し、神体として宝剣を
祀った。下って元禄七年(一六九四)に代官南条金右衛門が幕府に乞うて社地三反五畝が除地として許された。その後、
享保二年(一七一七)に神祇管領吉田家から正一位に叙されたという。
別当は、倉田村明星院の末寺であった南蔵院で、『中山道分間延絵図』を見ると、当社から南西に六〇〇メートルほど離れ
た、桶川宿の東(現在の東一・二丁目辺り)に位置し、その開山長祐は慶長十五年(一六一〇)の寂である。
明治初年の神仏分離を経て、当社は明治六年に村社となった。
境内 神楽殿、境内社
拝殿
桶川宿周辺で紅花を扱っていた商人たちが、安政4年(1857)に南蔵院不動堂へ 寄進されたとされる2基の石燈籠が拝殿前に
今も残る(明治2年(1869)に現在地へ移設したもの)。
境内には、こんな大きな力石がありましたよ。いや~、こんな大きな石(610kg)を持ち上げるなんて・・・・
「大盤石」
・稲荷神社の力石は、長さ1.25m、幅0.76m、厚さ0.4m、重さ610kgの雫のような形の楕円形。
・力比べに使った力石としては日本一重いと言われています。
・表面には「大般石」の文字と、嘉永5年(1852)2月、岩槻の三ノ宮卯之助がこれを持ち上げたことともに
当時の桶川宿の有力商人であった石主1名と世話人12名の名が刻まれています。
・三ノ宮卯之助(1807~1854)は旧岩槻藩三野宮村(現越谷市)出身で、江戸へ出て勧進相撲をつとめ、江戸一番の力持ち
と評判の力士でした。三ノ宮卯之助の名がのこる力石は、埼玉県内の他、千葉やかながわ、遠くは長野や兵庫でも確認。
ロウバイが満開でした。良い香りでしたよ。
ふらりと立ち寄って参拝させて頂きましたが、地場に根付いた、良い空気の流れている神社でした^^