2017.11.4 三連休の中日、天気も良さそうなんで、どっか低山ハイクするかーって事で神奈川県相模原市の
石老山に登ってきました。
鐘楼(鐘つき堂)で鐘を突いた後、顕鏡寺の寺山門の脇の「飯縄宮」の鳥居をくぐって更に上へ。
蓮華岩
巨石・奇石がまだまだ続きます。
木々が寄り添っているのか、巨石が生育を妨げているのか・・・
スゴイです。どんどん巨石が大きくなっていきます。その間を縫うように登ります。
擁護岩・・・ 石老山で一番の巨岩(19 x 22m)。
神社を抱えて守っている様に見えるので、この名前が付いたと言われています。
飯縄大権現
後述する「白狐に乗った剣と索を持つ烏天狗形」ですねー。
飯縄権現(いづなごんげん、いいづなごんげん)
・信濃国上水内郡(現 長野県)の飯縄山(飯綱山)に対する山岳信仰が発祥と考えられる神仏習合の神である。
・多くの場合、白狐に乗った剣と索を持つ烏天狗形で表され、五体、あるいは白狐には蛇が巻きつくことがある。
一般に戦勝の神として信仰され、足利義満、管領細川氏(特に細川政元)、上杉謙信、武田信玄など中世の武将たちの間で
盛んに信仰された。特に、上杉謙信の兜の前立が飯縄権現像であるのは有名。
・その一方で、飯縄権現が授ける「飯縄法」は「愛宕勝軍神祇秘法」や「ダキニ天法」などとならび中世から近世にかけて
は「邪法」とされ、天狗や狐などを使役する外法とされつつ俗信へと浸透していった。
・しかし、こうした俗信の域から離れ、現在でも信州の飯縄神社や東京都の高尾山薬王院、千葉県の鹿野山神野寺、千葉県
いすみ市の飯縄寺、日光山輪王寺など、特に関東以北の各地で熱心に信仰されており、薬王院は江戸時代には徳川家に
よって庇護されていた。別称を飯綱権現、飯縄明神ともいう。
・飯縄山を中心とする修験は「飯縄修験」と呼ばれ、代々その長を務めるのは千日太夫と呼ばれる行者であった。千日太夫は
近世には武田信玄によって安曇郡から移された仁科氏が務め、飯縄神領百石を支配していた。飯縄山における飯縄信仰は、
この千日太夫を中心に後世形作られていったものと思われる。
・飯縄権現がいつ頃から信仰としての形を整えたのか現段階で詳らかにすることはできないが、現存最古銘の飯縄神像は
永福寺の神像であり、応永十三(1406)年の銘がある。また、岡山県立博物館寄託の飯縄権現図は絹本著色で室町期の作と
推定されており、日光山輪王寺伝来の「伊須那曼荼羅図」には南北朝~室町期の貞禅の名が見える。加えて、高尾山薬王院
有喜寺における飯縄権現は、中興の祖俊源が永和年間(1375~79)に入山した折に感得されたといい、俊源が既に飯縄
権現に関する情報を得ていたことを伺わせる。中世初期にはかなり体系的な飯縄信仰像が形成されていたと考えられよう。
・一口に飯縄信仰と言っても、憑霊信仰や天狗信仰、武将や修験者、忍者の間での信仰、狐信仰など非常に多岐にわたって
おり、複雑な様相を呈している。室町頃には一面、魔法、外法といった捉えられ方が既になされていたようである。
・真言 オン チラチラヤ ソワカ
「チラチラヤ」は飯縄智羅天狗の「智羅」から来ている。また、今昔物語集に智羅永寿という天狗が登場している。
by wikipedia
いや~、すごい空間でした。つづく~