2017.10中旬~下旬 社用で「伊豆長岡温泉」へ行きました。翌日は半日観光でした。まずは、世界遺産の「韮山反射炉」。
さすがに世界文化遺産。よく整備されていましたし、反射炉をモチーフにしたお土産もたくさん売られていましたよ。
どうして「反射炉」というんだろう?
太陽光でも反射するのか?などと何の知識もないころは思っていました(笑
反射炉とは、
炉の中の溶解室の天井部分が浅いドーム形となっており、そこに炎や熱を「反射」させ、銑鉄に集中させることでその
高温を実現する構造となっていまて、そこから、反射炉という名称が与えられたとの事です。
「韮山反射炉」に関しては、ググるとあちこちに情報が出てきますが、違う角度から・・・
・日本の大砲文明は「鎖国」により途絶していた。
・嘉永三年(1854)の「ペリー艦隊の来航」以来、幕府をはじめ各地で大小様々な大砲の製造努力がなされてた。
・欧米はほぼ100年間に渡り産業革命が進行し、日本の現状は欧米とはかけ離れた後進的なものであった。
・韮山の江川塾では反射炉を作り、鋳鉄砲を生産した。
・多量に鉄を作るための反射炉は1840年頃から日本各所で試みられ、韮山の江川の反射炉はペリー来航頃には完成していた。
http://xn--u9j370humdba539qcybpym.jp/ より。
・1857年から1864年まで、反射炉本体での鋳造が行われる。
・1868年、幕府直営から江川家私営となる。(以降、鋳造されたかどうかは不明)明治維新後、陸軍省の所管。その後、
反射炉は、荒れるままに放置。1908年(明治41年)、陸軍省による補修工事。以後、保存修理が行われ、耐震補強・
煉瓦の風化防止処置などが施され、現在に至る。by wikipedia
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jfes/76/7/76_599/_pdf
上記を読むと、和製大砲の歴史がよく解ります。鋳鉄(ちゅうてつ・炭素量が多い>硬い)原料の問題・・・などなど。
どれだけの時期にどれだけの大砲が作られたか?という観点からではなく、大砲を作ろうと試行錯誤して作られた反射炉
が保存されているという視点が重要なのでしょうね。
幕末期には、佐賀藩や萩藩、水戸藩などでも反射炉が建造されましたが、当時の姿を最もよく残しているのが韮山の反射炉です。
さらに、ヨーロッパでは製鉄技術の発展とともに高性能の高炉が開発されて反射炉に取って代わったため、やはり反射炉の遺構は
残っていないといいます。そうした点からも、韮山反射炉は製鉄技術史の発展段階を示す、貴重な遺産であるといえるでしょう。
http://www.egawatei.com/ より。