2017.10.8~9 谷川岳へ登ってきました。
続きです。10.8、宿に着いたのは19時半ごろ^^; お宿はみなかみ町谷川の「旅の湯やど・ペンションセルバン」。
このペンションは2箇所の源泉より温泉を引いていて、100%源泉かけ流し温泉でありんす^^
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立派な木材利用の椅子にはセルバン=マッターホルンの絵が^^ 御主人が作られたそうですよ。
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こちらもご主人が作られたオリジナルやまつみ。スゴイです。
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夕食時に日本酒で山の名前の「八海山」があるのだから、「谷川岳」は無いのか?と思って、ひょいと横を見ると、
70位のご夫婦が食事されていて、なんと「谷川岳」を飲まれていました。そんなきっかけでいろいろとお話しましたが、
鹿児島からお越しのようで、なんとリタイヤ後に100名山の62座を登られているとか。いや~すごいですわ^^;
盛り上がってお話している間に届いた名文句は「何も足さず、何も引かず」でした。中庸を重んじた生き方には共感しましたよ。
感謝感謝^^
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前後しますが、下記の投稿にあるように、翌日9日早朝、朝食前にペンションの直ぐに近くの谷川浅間神社を参拝しました。
事前に近くに浅間神社のあることは知っていました。その神社の手水舎が先月できたばかりの真新しいものでした。そんな
お話を何気なくご主人にお話ししたら、なんとその手水舎はご主人がボランティアで作られたとの事。また、谷川岳の山頂
直下の富士浅間神社(ブロッケン現象出現の)の割と新しいと思われた祠も、こちらのご主人他の方がボランティアで担ぎ
上げられたとの事。いや~驚きました。こんな出逢いもあるのですね~。感謝感謝^^
9日早朝、ペンション周辺散策。近くの富士浅間神社へ詣でました。拝殿脇から直ぐ入れましたが、参道下から回り込んで
みました。
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「小さなレストラン彩絵」前の橋を渡ると鳥居が見えてきました。
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鳥居をくぐり階段を上ると・・・
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いったん道路に出ますが、更に参道階段が続いています。
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スギの参道を抜けると拝殿が見えます。
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立派な拝殿です。
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先月できたばかりの手水舎。これから柱が建てられて屋根もできるのでしょう。
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振り返ると参道脇には神楽殿
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「浅間大神」
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拝殿脇には末社がたくさん鎮座していました。
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御神木とされる根上りカエデ
大きな切り株の上に根付き、その後切り株が腐ってこのような根上りになっているそうです。もしかしたら「沓掛柳」と呼ばれる
柳の古木が立っていたのでしょうか・・・?
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根上りの株の中には絵馬のような「お願い石」が。この石もご主人が糸魚川から持ってこられたそうです。
http://www.geocities.jp/adr61884jp/2008-10_tanigawadake-2.html(谷川岳の山岳宗教について高橋千劔破氏の著作
『谷川岳-歴史を秘めた魔の山』よりの抜粋です。
・谷川岳は、近現代の登山史の中で語られることは多いが、近世以前の歴史についてはほとんど語られることがない。峻険なる
人跡未踏の秘峰であったわけではない。古くから、清水峠を越えて、また三国峠越えによって、上越国境を人々が往き来していた。
・上州沼田(群馬県沼田市)から、利根川に沿って後閑、上牧、水上と辿り、支流の湯檜曾川沿いの道から清水峠を越えて越後に
至る清水峠越往還は、おそらく古代から続く道だ。 後閑や上牧のあたりからも、「耳二ツ」の谷川岳はよく目立つ。
・水上温泉のあたりからは、その谷川岳南面の大岩壁俎嵓が間近に望める。 谷川岳の名称は、かつてはその俎嵓を指したもの
という。俎嵓に源を発し、水上温泉のあたりで利根川に注ぎ込む渓谷が「谷川」であり、その水源の岩壁群を谷川岳と呼んだの
であろう。
・険しい山があれば、その頂きに立ってみたいと思うのは人間の本能だ。 おそらく、古代より、あるいはもっと古くから、
この山に憧れたり挑んだりした人は少なからずいたにちがいない。
・水上温泉から利根川を少し上流に遡った大穴(おおあな)には、石器時代の住居跡がある。昭和十年に発見された国指定史跡
「大穴石器時代住居跡」である。 縄文時代の中期には、すでに谷川岳を仰ぐこの地に、私たちの遥かなる先祖が住みついていた。
・縄文人が谷川岳に登ったかどうかはわからないが、大穴のすぐ先で湯檜曽川が利根川に合流しており、湯檜曾川に沿って遡り峠を
越える越後との交流ルートがあったことは、想像に難くない。
・太古の旅人たちもまた、谷川の峰々を仰ぎ、のちに一ノ倉沢やマチガ沢、俎嵓と呼ばれることになる大岩壁を間近に見て、畏怖の念を
抱いたことであろう。 なかには、冒険心をかき立てられた者もいたにちがいない。
・やがて仏教が伝来し、各地に山岳霊場が開かれ、修験道が盛んになると、谷川岳もその対象となったことは疑いない。 古来
人びとが畏怖し続けてきた岩壁を、修験者たちが見過ごすはずはないのだ。だが、残念ながら、古代から中世にかけての谷川岳の
山岳宗教に関しては、伝説からうかがうだけで、史実としてはほとんどわかっていない。
・谷川岳は谷川富士とも呼ばれる。これは、オキの耳に富士権現が祀られ、古く浅間岳と呼ばれたことに由来する。対してトマの耳は
薬師岳と呼ばれていたという。中世後期から江戸時代にかけて、各山上に詣でる人が少なからずいたらしい。
・オキの耳を奥宮とする富士権現の里宮・富士浅間神社は、水上町(現みなかみ町)谷川にある。 康暦二年(一三八〇)の創建と
伝え、木花開邪姫命を祭神とするが、江戸時代前期の万治元年(一六五八)に上州沼田藩主真田信利がこの神社を再建したときの
棟札に「沼田総鎮守谷川嶽郷中蒼生大産土」とあり、もとは谷川岳東麓から南麓にかけての産土神であったのであろう。 しかし
富士浅間信仰との結びつきは中世に遡る。 谷川の富士浅間神社の神体は、一ノ倉の大岩壁の岩室から発見されたという二面の懸仏
(かけぼとけ)である。 一面は坐像で虚空蔵、もう一面は立像の十一面観音。共に「永禄八年(一五六五)」銘と、「富士浅間大菩薩」
の銘が刻まれている。
・開基にちなむこんな伝説がある。足利義満の時代の康暦二年二月(1380年)の夕刻、不思議な光が南方から飛んで来て谷川岳上空
に留まり、一晩中山上を照らし続けた。 翌日、東麓の村々では大騒ぎになり、水上村に住む祈祷師に占ってもらうと、祈祷師は神懸り
して、「我は駿河の霊峰富士の浅間大菩薩なり。 この地の人々に救いの道を開かんとす。 山上に社を建て末長く守護せよ」と叫んだ。
そこで村人たちは、雪解けを待ち六月になって苦難の果てに山上に至ると、頂上の大岩の中に桃の木が生え、八面の浅間大菩薩の懸仏が
掛けてあった。 村人は驚き畏れ、懸仏をご神体とした社を山上に建立して、山麓の谷川に里宮をつくった――。
・こんな話も伝えられている。やがて谷川岳信仰登山が盛んになり、夏のお山開きの期間には多くの人が山上に詣でるようになった。
里宮の浅間神社にお参りし、新しい草鞋に履きかえて、保戸野川で身を浄めたあと川に沿う道を辿り、途中の険路・岩場を苦労
して乗り越え、山上に詣でた。急峻な岩壁に囲まれた一ノ倉は、人の侵入を拒む神の座である。 一ノ倉の「倉」が「磐座(いわくら)」
を意味することはまちがいない。 山上に詣でた人々が、その神の座に賽銭を投げる風習があったといい、一ノ倉沢は「銭入れ谷」
とも呼ばれたという。 その一ノ倉に挑んだ者たちがいた。岩登りに長けた修験者たちである。彼らは、一ノ倉を修行の場とし、
源頭の洞窟に住んで谷川登山のルートを開拓した。 いつしか、修験者たちが住んだ一ノ倉の洞窟には、彼らが秘かに埋蔵した
黄金の御幣と黄金の鰐口黄金づくりの太刀の三宝があるという噂が広まった。すると、その宝物を盗もうという者が現われた。
利根郡のさる神社の息子という光次郎と左近の兄弟である。彼らは大穴村の多兵衛を案内に雇い、水垢離もせず、山に登りはじめた。
山開き前のことで、残雪も多く困難な登山であったが、天神嶽を経て何とか山頂に辿りついた。 山上から見下す銭入れ谷は、あまり
にも深く急峻で、到底下りられるとは思えない。だが欲にかられた兄弟は、彼らの意図を知って驚き止める多兵衛を 振り切り、左近の
支える綱を頼りに光次郎が岩を下りはじめた。それを止めようとする多兵衛。左近は綱を放し光次郎は深い谷に吸い込まれていった。
揉み合う 多兵衛と左近もまた、奈落へと滑落していった――。
・以上はもちろん伝説にすぎないが、かつてこの山が山岳信仰の霊場としてそこそこに賑わい、また一ノ倉沢などの大岩壁が修験者
たちの行場であったことを伝えている。 富士浅間神社の境内には、かつて「沓掛柳」と呼ばれる柳の古木があったという。谷川
登山の禅定者たちが、ここまで履いてきた草鞋を脱いでこの柳に掛け、下山のときには山に履いていった草鞋をまたこの柳に掛けて
帰ったのだという。
どうして、谷川岳なのに「富士」浅間神社なのだろうと思っていたわけですが、これで謎が解けました。1380年、UFOが飛んできて
一晩谷川岳を調査した。翌日、霊能者に浅間大菩薩が憑依し、山頂に社を建て、自然に対して畏敬の念を抱いていくようにと告げた・・・。
今時ならば、このような解釈でしょうか。現在は、宮司さんも居られない村の方々が見守る氏神様のようですが、立派な拝殿ですし、
谷川信仰を知る上でも貴重な神社だと思いますね。いつまでも維持され続けることを願います。 つづく~