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Channel: ~風に吹かれて~ by ポー(paw)
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御穂神社(静岡市清水区三保)

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2017.6.9~11 静岡・愛知方面へ出かけました。

あちこち神社にも寄ってきましたよ。

由比の豊積神社から更に西へ。清水の中心地を抜けて三保の松原方面・御穂(みほ)神社へ。同じ「みほ」と読ませ
ますが、何で字が違うんでしょうね?wikipediaによると「みほ」の字は、「御穂」のほか「御廬」「三穂」「三保」
にも作るとなっています。

清水中心部は、けっこう車を飛ばす方が多かったですねー。市内北部の竜爪山は標高1000m以上あるようで、
けっこう山の威圧感があり、とても賑わっている都市ですが、狭く感じました。

清水市

・日本平の東麓に位置し、富士山を望む港町。
・清水地区は天然の良港である折戸湾を持ち、古くから海運中継地として発展した。一方、江尻地区は東海道江尻宿の
 宿場町として発展した。
・本市出身の漫画家さくらももこ原作の漫画「ちびまる子ちゃん」の舞台として有名。
・日本国内では、サッカー王国としても知られ、Jリーグ草創期には「日本のブラジル」とも呼ばれた。
・羽衣伝説で知られ、旧静岡市と合併後の2013年に世界文化遺産に登録された三保の松原を抱える都市でもある。

・清水市域に人々が住み始めたのは、1万年以上前であったと言われており(縄文前期にはすでにムラが形成されていた
 ことが庵原の大乗寺平遺跡の出土遺物から立証されている)、5世紀ごろには大集落「イホハラの国」が出現している。
・律令制が確立する前は、廬原国造廬原氏が治める廬原国の国衙が置かれ、駿河の国の中心寺も又庵原にあり(尾羽廃寺)、
 現在の静岡県中部地域の中心であった。
・日本書紀には663年朝鮮「白村江の戦い」に当地から廬原君臣に率いられた万余の健児(兵士)が出港して行ったことが
 記述されている。
・日本武尊の伝説につながる草薙神社や三保の松原の美穂神社が、平安時代の延喜式に記載されている。
・承久の乱や梶原景時討滅等の戦功により、清水武士団の勢威拡大。吉川氏は西遷。
・今川氏の領国を経て、甲斐武田氏により駿河が領国化されると、武田氏の水軍基地になる。
・江戸時代には江尻に東海道江尻宿が置かれる一方、清水湊は西国の赤穂の塩等を江戸へ送る中継基地としての役割を担うと
 共に、富士川舟運を通じた信濃・甲斐方面からの廻米輸送基地として栄えた。by wikipedia

で、三保の松原へ行く前に御穂神社へ参拝に行きました。

境内入り口

三保大明神^^

高い松・・・風も良い感じです。

参道の拝殿前に神楽殿があります。 

神馬舎と末社

神馬
1773年(安永2年)の駿府大火で静岡浅間神社の神馬2頭が御穂神社へと逃れ、1頭は御穂神社に残り、1頭はもとに戻ったと
いう伝説が残されている。もとは左甚五郎作といわれる木製のものだったという。この神馬くん、愛嬌のある顔をしていましたよ。

社務所と拝殿

神楽殿

拝殿

本殿

とても気が高まる空間でした。よい空気、風が流れていました。生命力が高まり、気が満ち、疲れが取れたのには驚き
でした。ずっと居たい神社でしたね。

子安神社

安産を願い、穴の開いた柄杓がたくさん^^

御穂神社(みほじんじゃ)
・静岡県静岡市清水区三保にある神社。式内社、駿河国三宮で、旧社格は県社。
・三保の松原の「羽衣の松」に関係する神社として知られる。
・神社境内と参道(神の道)は、世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産の1つ「三保の松原」の範囲に含まれる。

・祭神:大己貴命(大国主)別名「三穂津彦命」。三穂津姫命。『延喜式』神名帳では祭神は1座。『駿河雑志』では、
 「御穂津彦」・「御穂津姫」の2柱。

・創建は不詳。『駿河雑志』では、日本武尊が勅により官幣を奉じ社領を寄進したとも、出雲国の御穂埼(現・島根県松江市美保関町)
 から遷座した神であるとも伝えるが明らかではない。
・三保の松原には「羽衣の松」があり、羽衣の松から御穂神社社頭までは松並木が続くが、この並木道は羽衣の松を依代として降臨した
 神が御穂神社に至るための道とされ「神の道」と称される。現在でも筒粥神事では海岸において神迎えの儀式が行われるが、その際に
 神の依りついたひもろぎは松並木を通って境内にもたらされる。これらから、御穂神社の祭祀は海の彼方の「常世国」から神を迎える
 常世信仰にあると考えられている。
・国史では神名を「御廬神」として、貞観7年(865年)に従五位下から従五位上へ、のち元慶3年(879年)に正五位下へ神階が昇叙
 されたという記事が見える。
・『延喜式』神名帳では駿河国廬原郡(庵原郡)に「御穂神社」と記載され、式内社に列している。
・寛文年間(1661年-1673年)頃の偽書とされる『駿河国風土記』では、「日本武尊奉勅供官幣、始献圭田五百畝、為国之三宮」と
 記載されていることから、当社は駿河国において富士山本宮浅間大社(一宮)、豊積神社(二宮)に次ぐ三宮の地位にあったと推測
 されている。ただし、同記でそのように記す根拠は明らかとなっていない。by wikipedia

「神の道」です。神社の前から三保松原へ続いています。ちゃんと歩いて三保松原へ向かいましたよ。


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