2017.1 狭山の「廣瀬神社」へ行ってきました。
最近は、出先で自分の現在地をグーグルマップで確認して、その周辺の神社を検索。とりあえず★印の多い神社を探して参拝しています。
廣瀬神社
広瀬神社埼玉県狭山市広瀬にある神社式内社で、旧社格は県社。
神楽殿脇の巨木
背が高いなあ・・・と思ったら、境内中央に、更に巨大なケヤキが・・・
な、なんなんですか・・・この巨木は!!!
拝殿前から振り返っても、すごい存在感だ。。
拝殿
本殿
脇には池もありました。
こちらは本殿脇の巨木
太鼓楼
太鼓を設置するための建物。太鼓を鳴らすことによって、時報や、緊急事態発生の伝達などの役割を果たした。
昭和15年、紀元2600年記念事業とし太鼓楼を新築。
「不朽の梅」
樹齢400年。梅の木は、樹齢200年を超えると幹がねじれるそうです。
神楽殿と二本の巨木
二本の大欅、共に樹齢800年と云われています。『新編武蔵風土記稿』によればかつては3本であったそうです。
かつての本殿の場所
今の本殿の場所よりもより大欅に近いですね。
さて、大欅です。
この大ケヤキは高さ約30メートル、周囲約6メートルというまれに見る巨木で、樹齢7~800年と推定されます。
なんと毎年アオバズクの営巣と子育てが観察されているそうです。見たいなあ。
いや~、圧倒されます。すごいです。
狭山では、唯一の式内社のようです。う~む・・・こんな神社があるとは・・・。知らない神社がたくさんありますなあ。
主祭神:若宇加能売命、神火産霊命、木花咲耶姫命、八衢比古命、八衢比売命、久那斗命
創建は、社伝によれば景行天皇代に日本武尊が東征の折、この地を通りかかった際、この地が大和国広瀬郡川合
(現在の奈良県北葛城郡河合町)に似ているとして、その地に祀られていた廣瀬大社の神々を分祀し、武運長久と
五穀豊穣を願ったことによる。
これを信ずれば当神社は廣瀬大社の分社ということになるが、日本武尊自身が伝説的人物である上、廣瀬大社にも
武蔵国に分祀を行ったという記録は残されておらず、分社であるとは認めがたい。現在では「広瀬」の社号は
廣瀬大社に由来するものではなく、この地が川の合流点に位置し広く瀬が広がっているから「広瀬」という
自然地名からついたもので、偶然の一致であるとされる。
しかし入間郡内でも有力な古社であったのは事実で、六国史である『日本文徳天皇実録』の嘉祥3(850)年6月3日條に
「詔以武藏國廣瀬神。常陸國鴨大神御子神主玉神。並列於官社」として、官社に列せられたことが記されている。
またそれから約80年後の延長5(927)年にまとめられた延喜式神名帳では、そのまま「廣瀬神社」の名で武蔵国入間郡五座の
一座に列せられている。
江戸時代には新義真言宗の寺であった宝蔵寺(現在は廃寺)が別当寺となり、上広瀬村・下広瀬村の鎮守となった。なお、
文政6(1823)年11月に宝蔵寺の火災の延焼により古文書を焼失している。
明治6(1873)年に郷社に列せられたが、社格が低すぎるとして当神社の神官であり名主→戸長であった清水宗徳が社格を
上げるよう運動し、翌7(1874)年に県社へ昇格した。また同時期に境内に「幼育学校」を創立、神官の育成に努めてもいる。
明治40(1907)年に愛宕神社・浅間神社を合祀。また2年後の明治42(1909)年には境内北隅にあった本殿を中央に移し、
拝殿を新築した。現在の建物は昭和50(1975)年に改築修繕されたものである。 by wikipediaまとめ