3/31 NHKスペシャル 魂の旋律 〜音を失った作曲家
チャンネルを回していて、偶然見た。惹きつけられ。その後、wikiを見てみた。
スピリチュアリズムの観点から、一体この人はどれだけのものを背負って現世に転生して
きたのだろうかと思ってしまう。いろいろな事を思い浮かべてしまうが、それらも彼の魂の
成長へと繋がっているのだろう・・・。草間彌生さんと共通するものがあるのかもしれない・・
相対する私たちには、ただ、「祈ること」しかできないと思った。
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佐村河内 守(さむらごうち まもる)さん
1963年9月21日生 広島県出身の作曲家。
●ご両親は被爆者。
●佐村河内家は能美島の出で、村上水軍の末裔と伝えられる。
●4歳から母親からピアノの厳格なスパルタ教育を受ける(ヴァイオリン、尺八、マリンバも)。
●5歳で「マリンバのためのソナチネOp.1」を作曲。
●小学4年生でベートーヴェンのピアノソナタやバッハを弾きこなす。
●10歳のとき「もう教えることはない」と母親から告げられて作曲家を志望。
●中学生時代は音楽求道に邁進する一方で、学年の番長との喧嘩や他校への出張抗争を繰り返す悪童。
●17歳で『交響曲第1番』の作曲に着手。同年から原因不明の偏頭痛や聴覚障害を発症。
●高校卒業後、現代音楽の作曲法を嫌って音楽大学には進まず、肉体労働者として働きつつ独学で作曲
を学ぶ。
●19歳の時には失職して家賃を払えなくなり、アパートを追い出されてホームレスに。
●1988年、ソロのロック歌手としてデビューしたが、その直後に音楽的理解者だった実弟を交通事故で失っ
たことがきっかけでプロダクションとの契約を解除。以後もアマチュアのロック歌手としてバンド活動を行っ
ていたが、その頃から聴覚異常を発症し、1989年、健康上の理由でバンドから脱退 。
●33歳で映画『秋桜(cosmos)』の音楽を手がける。このとき、左耳は聴力を失っていた。
●35歳のとき、『鬼武者』のための音楽を作曲し始める直前に聴覚を失って全聾となる。『鬼武者』完成後、
自らの聴覚障害を初めて公表。
●抑鬱神経症や不安神経症、常にボイラー室に閉じ込められているかのような轟音が頭に鳴り響く頭鳴症、
耳鳴り発作、腱鞘炎などに苦しみつつ、絶対音感を頼りに作曲を続ける。特に頭鳴症による耳鳴りについて、
佐村河内は「父と母が、そして歴史が聞いた『原爆の音』。それを私の血がいま、聞いているのかもしれま
せん」と述べている。光を浴びることで偏頭痛や耳鳴りの発作が誘発されるため、自宅では暗室に籠り、
外出時には光を避けるためのつばの広い帽子とサングラスを着用することを余儀なくされている。
●1999年、ゲームソフト『鬼武者』の音楽「交響組曲ライジング・サン」で脚光を浴びる。2002年、身体障害
者手帳(感音性難聴による両耳全聾、身体障害者等級第1種2級、両耳鼓膜欠落)の交付を受ける。同じ
頃から盲児のための施設にてボランティアでピアノを教える(この施設の女児の一人は、佐村河内が『交響
曲第1番』の作曲を再開するにあたり彼に霊感を与え、この作品の被献呈者となった)。
●2003年秋、『交響曲第1番』を完成。その直後、病苦から発作的に縊死を図るも未遂に終わる。2005年
8月、『交響曲第2番』を完成。その翌日、再び縊死を図るもやはり未遂に終わる。
●2008年9月1日、広島市の広島厚生年金会館ホールで行なわれた「G8議長サミット記念コンサート〜ヒロ
シマのメッセージを世界に〜」にて『交響曲第1番』の第1楽章と第3楽章が広島交響楽団により世界初演さ
れる。同年、広島市民表彰(市民賞)を受ける。
●2009年、『交響曲第1番』は芥川作曲賞の選考過程で審査員である三枝成彰が推すも最終候補とならな
かった。精神科に通院し、1日に15種類の薬を服用しつつ作曲活動を行っている。
●2010年4月4日、大友直人指揮の東京交響楽団により、『交響曲第1番』(広島初演版による改訂版)の第1
楽章と第3楽章が東京芸術劇場で演奏された。同年8月14日、秋山和慶指揮の京都市交響楽団により、
『交響曲第1番"HIROSHIMA"』全曲版が京都コンサートホールで演奏された。
●2013年3月10日石巻市立湊小学校の体育館で「被災地のためのレクイエム」が初披露された。
●2013年3月31日、佐村河内守を特集したNHKスペシャル「魂の旋律 〜音を失った作曲家〜が放送される。
番組では、『交響曲第1番』の成功、聴力を失った苦悩、東日本大震災の被災者へ向けたピアノ曲「レクイエム」
作曲に至る経緯などが紹介された。
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