「・15のライフレッスンbyキューブラーロス」カテゴリーからの投稿です。
自分を明け渡すためには、毎朝、目が覚めたときに「「わたしの意思で」ではなく、
「汝の意思で」といえばいい。そして、こういうのです。「今日、何が起こる事に
なっているのか、私は知りません。今日、自分がする事の計画はあります。でも、そ
の計画は青写真でしかないという現実に対して、私は自分を明け渡します。嬉しい誤
算も、恐ろしい誤算もあるかもしれません。それでも信じます。何が起こっても、そ
れは全て私を一つの方向に導いてくれるものである事を信じます。私の存在、私の魂
を、最善の形で開花させてくれる方向に」
明け渡しと降伏には大きな違いがあります。降伏とは、例えば致命的な病気の診断を
受けたときに、両手をあげて「もうだめだ。これでおしまいだ!」という事です。し
かし、自分を明け渡す事は、いいと思った治療を積極的に選び、もしそれがどうして
も無効だと解ったとき、大いなるものに身をゆだねる道を選ぶ事です。降伏するとき、
我々は自分の人生を否定します。明け渡すとき、我々は在るがままの人生を受け容れ
ます。病気の犠牲者になる事は降伏することです。しかし、どんな状況にあっても、
常に選ぶ事ができると考えるのが明け渡しなのです。状況から逃げ出すのが降伏であ
り、状況のただ中に身を捨てるのが明け渡しです。
ほんの小さなことにさえ無条件に従えない人が大勢います。講演会などでも、講演の
途中で演者に異議を唱える人が必ずいます。演者が述べ終わるまで待ちきれずに異議
を唱えるのは、受け取る事、学ぶ事に自分を明け渡していない証拠です。
世の中には、他人にしゃべらせる事が自分の敗北だと考える人さえいます。相手の話
を聞く事、注意深く聞く事は、相手の見解に多少なりとも自分を明け渡す事です。相
手の見解を取り入れようと、捨て去ろうと、それは自由ですが、いずれにしてもそれ
は自分を明け渡した後の話です。
何でも自分の思い通りにしたいという人が増え過ぎたのです。私たちは謙虚であると
いう事、誰かの足元にひれ伏すという事がどんな事なのかを忘れてしまっています。
例えばほんの短時間、ほんの些細な事でさえも、誰かのアイデアや経験を素直に受け
取る事ができなくなっています。
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朝、今日一日どんな事が待ち構えていようとも、全てを受け入れる。良いことも悪いことも。
それら全ての事は、自分の魂の糧になる、成長させる、良い方向へ向かわせているのだ
という強い信念を持つことが、日常生活の中で、自分を明け渡すということなのでしょう。
辛い病の最中では、明け渡す事は、とても難しいでしょうね。どのような腹のくくり方で
対処すればよいのでしょうか?いずれ誰もが必ず死を迎える・・・と開き直るのか、魂の永久
不滅を信じるのか(個人的な特異な体験からか?信頼のおける文献等を読み込むか?)・・・。
いずれにしても自分で納得し尽くす哲学を持ち、今から慌てないような心構えを養っておく
ことも大事なのでしょう。
一方、ちょっとした日常の生活の中にも、「明け渡し」が応用できますね。上記に書かれて
いるとおり、相手に対して「聞き上手」になる事がそうでしょう。まずは「受け入れる」姿勢
から、お互いの心が寄り添いますし、理解し合える方向へと向かいます。「あなたと話を
していると何でも話してしまう」・・・・・そんな人が時々いますよね。
ネットや携帯の普及で、ホントに「待つ」ことをしなくなりました。早急に、せっかちに、物事
を要求する場面がとても増えました。「我慢」や「忍耐」の心構えを忘れ、謙虚な気持ちも
遠のいている気がします。自分で時間の流れをコントロールできるくらいの余裕を養いた
いものですね^^