2017.3 黒山熊野神社(埼玉県越生町)へ参拝に行きました。
熊野神社は古くは将門宮と称した。
同じく黒山にある榛名宮と愛宕宮をあわせて熊野権現(熊野三山)としたのである。
平将門の後裔といわれる栄円は関東に修験道を広めるために、応永5年(1398)に
黒山の山本坊を開いてその拠点とした。その後、修験者の道場として栄えたが、
明治元年の神仏分離令によって熊野神社とされ黒山の鎮守様となった。
社殿は昭和60年に焼失、同63年に再建された。
http://youzantei.la.coocan.jp/mitisirube/kuroyama_spot01.html より
黒山三滝の風景はこちら(2008年、2012年)
道路に沿って良い感じです。
拝殿
境内はもっと広いかと思ったらさほどでもありませんでした。
立派な杉でしたよ。
神社前の「越辺(おっぺ)川」
なんで「おっぺ」と読むのだろうとググってみましたが、
越辺川の語源については、「越生の辺りを流れる川」から来ているという説や、北海道乙部町の「乙部」と同様に
アイヌ語の「オ・ト・ウン・ペッ(o-to-un-pet 下流の方に沼のある川)」に由来するという説などがあるものの、
詳しいことは分かっていない。by wikipedia
との事でした。この川の源流は、ここから直ぐ近くの黒山三滝のようです。
対岸にある「越生町 全洞院」
全洞院は、岩松山と号し曹洞宗の寺で本尊は弥陀を安置している。この寺には、近くで自刀した渋沢平九郎(しぶさわへい
くろう、渋沢栄一の養子)の墓がある。 渋沢平九郎は、飯能戦争のときの振武軍(しんぶぐん)の副将で、渋沢成一郎を大将
として飯能市羅漢山(現、天覧山)に立てこもった。 振武軍は慶応四年(1868年)五月二十三日の官軍三千名の総攻撃を
受け敗れ、渋沢平九郎は傷つきながら故郷下手計村(しもてばかむら、現在の深谷市)に退れようとする途中 、顔振峠の茶屋
の主人に落人姿では危ないと言われたため百姓姿に身を変えたが、越生町まで進出していた官軍に発見されてしまった。藁包
に忍ばせてあった小刀で抵抗したが、多勢に無勢、利あらずと悟った平九郎は近くの大岩に座って自刃した。首は官軍に
よって越生にさらされたが、胴体は村人の手により全洞院に葬られ「ダッソ様」(脱走様)と呼ばれた。なお、岩の脇のグミ
は平九郎の血を吸ったため、その実は平九郎の血を宿すと言われ「平九郎グミ」と呼ばれ、後年、一族の渋沢栄一、渋沢敬三
らによって碑が立てられている。
越生の梅林は、もう枯れていましたが、ここは少し奥なので未だ梅が綺麗に咲いていましたよ。
右下にフキノトウ。早春の風景ですね。