2016.12
ときどき詣でている大宮八幡宮へ行ってきました。あまりに身近な神社なので詳細を調べることがなかったのですが、
今回調べてみました。
大宮八幡宮(杉並区)
由緒と歴史(神社HPより)
第70代・後冷泉天皇の天喜年中(1053〜57)に、奥州に乱(前九年の役)が起き、この乱を鎮めよとの勅命をうけた
鎮守府将軍・源頼義公の軍がこの大宮の地にさしかかると、大空には白雲が八条にたなびいて、あたかも源氏の白旗が
ひるがえるような光景となりました。源頼義公は、「これは八幡大神の御守護のしるしである」と喜ばれ、乱を鎮めた暁には
必ずこの地に神社を構えることを誓って、武運を祈り出陣されました。そして奥州を平定して凱旋のおり、誓いの通り
康平6年(1063)、京都の石清水八幡宮より御分霊をいただいて、ここに神社を建てました。
かつては武蔵国三大宮の一つ「多摩の大宮」あるいは「武蔵国八幡一之宮」と称され、昭和44年に境内の北端につづく
旧境内地から弥生時代の祭祀遺跡や族長の住居跡が発掘され、この地は太古からの聖域であったことが判明致して
おります。
なるほど、パワースポットと云われるだけの聖域でもあるわけですね。
まだ紅葉していましたよ。
大祓
日本の神道儀式の祓の1つ。祓は浄化の儀式として宮中や神社で日常的に行われるが、特に天下万民の罪穢を祓うという意味で
大祓という。1年のうち、毎年6月と12月の晦日に行われるものを恒例とする。
民間行事としての大祓は、応仁の乱で宮中行事として廃絶した以降は、神仏習合の影響で民間でも行われることはほとんどなくなった。
1871年(明治4年)の太政官布告で大祓の復活が宣ぜられた。これにより神仏分離が行われた全国の神社でも毎年の大祓が行われる
ようになった。wikipediaより要約
お宮参りの方もおられました。青い空が印象的な日でした。
若宮八幡神社と大宮稲荷神社
冬桜 満開過ぎていました。
多摩清水社
「この多摩の清水は「多摩の大宮」といわれた武蔵野の昔を想望してつくられ、今なお、御神水がわき出しています。」
との事ですが、もうずいぶん昔に周辺の宅地化で枯れてしまったらしく、今はその場所に井戸を掘って汲み上げているようです。
水道のように蛇口をひねって水を出すのが何だかなあと思いましたが、美味しいようでペットボトルに入れて持ち帰る方が
多かったですよ。
その後、母校の泉南中学校へ。学校の前に下記の看板がありました。
縄文中期・弥生時代~古墳時代の遺跡がたくさんあったようですね。そしてすぐ近くに大宮八幡宮。
当時の生活・祭祀の様子が、ふわ~っと浮かんできたのでした。
その後、「多田神社」へ。
平安時代中期の武将・多田満仲(源満仲)公を祀る神社です。
多田神社 神社hpより
「満仲公は第56代清和天皇の御曽孫多田源氏の祖神である。幼少より文武両道に秀で国家に凛然として輝き、武門の棟梁たる勅諚を
賜り国家鎮護の大任を課されたのみならず、或は沼地を開拓して広大なる田畑を造成し、或は河川を改修して農耕の拡大に寄与し、
併せて源氏興隆に確固たる基礎を築かれた。
その第2子は歴史上著名な頼光公であり、第4子頼信公は平忠常を討ち関東を平定した。続いて頼義、義家の父子二公は
前九年後三年の両役に大軍を率いて、奥羽の地に赴きその凱旋の帰途、寛治6年(1092年)祈願達成の報賽として大宮八幡宮に
神鏡を献じ、別当宝仙寺を建立すると共に大宮八幡宮造建の時の八幡宮神供の雑色料の地である当地に日頃淑敬する満仲公の祠を
建てたところ雑色村の鎮守社として住民に崇敬せられてきたということが「武蔵名勝図会」に記されている。新編武蔵風土記稿には
「多田権現稲荷合社」と記されている。」
小学生だった頃、確かにこの辺りで遊んだ思い出がわずかに浮かんできたのでした。